横浜院長の柏です。すみません、今日はマーラーおたくのひとりごとです。
ブログNo.025, No.070に続き、今日もみなとみらいホールのインバル=都響、マーラーツィクルスに行ってまいりました。今回で横浜は最終回となる第9番でした。都響の9番は、7年ほど前に上野で聴いたことがあり、2回目となります。ツィクルスとしては、私は4, 6, 9番を聴いたことになります。今にして思うと2, 3番を逃したのが悔やまれますね。
前回も書きましたが、マーラーの最高傑作は6番でしょう。才気とエネルギーのほとばしる、作曲家円熟期の作品です。その後長女の死と自らの心臓病の発覚という苦しみを得たマーラーが、その死の2年前に書き上げたのがこの9番です。マーラーにとって、死は常に創作の中心にあるテーマでした。人はどこから来てどこへ行くのか。彼の人生に一貫したこのテーマを追っていくと、死は避けて通れないものとなります。
1番の「巨人」の第3楽章に葬送行進曲をはさんだだけでは足りず、2番の「復活」の第1楽章で改めて巨人を埋葬します。アダージェットが有名な5番も、その第1楽章は葬送行進曲です。ベートーヴェンが9番を最後にしていることから、9番の呪いを怖れ、9番目の交響曲は「大地の歌」として番外編にしたのは有名ですね。ここまで死を意識したマーラーが、ついに9番と銘打ったのがこの交響曲です。10番は未完に終わっており、完成した交響曲としては彼が怖れた通り、これが最後の曲となりました。
前から4列目の私の席からは、今日のマエストロは少しお疲れに見えました。始まりも遅れ、第2楽章の後は楽屋に長く留まっておられました。しかしそのあとが凄かった。最後の生の輝きである第3楽章は、コーダにエネルギーのピークを迎えます。その余韻の中にはじまる第4楽章。弦楽中心の緩徐楽章です。これまで死を怖れ、意識するとともに生のエネルギーも作品に多く注ぎ込んだマーラーとしては異色の楽章です。葬送行進曲とは異なり、調性は長調(変ニ長調)のアダージョ。ここにあるのは、生死を超越した純粋な音楽です。マエストロは、それを余すことなく描ききります。最後、ヴィオラの音色がゆっくりと、ゆっくりと消えゆくその瞬間、そしてそのあとの静寂。鳥肌が立ちました。本物の至高のひとときを過ごさせていただきました。ありがとう、マエストロ。
マーラーといえば、当時の音楽界のスーパースター。指揮者として、作曲家として名声を成し、さらに若く才能ある有名人、アルマを妻とします。今で言えばプロデューサー、つんくか小室哲哉かといったところでしょうか。そうしたこの世の栄華を極めたマーラーの行き着いたこの最終楽章。私は、この楽章は「あの世に最も近いこの世の音楽」だと思います。一方で、私が「この世に最も近いあの世の音楽」だと思うのが、ブルックナーの同じく交響曲第9番の最終楽章(第3楽章)です。ブルックナーは、マーラーとは対照的に、敬虔なキリスト教徒の大学教師として生涯独身で過ごしました。俗世を超越した、あの世から来たとしか思われない音楽です。
いずれの9番もすばらしい曲です。長い曲ですが、ぜひ聴いてみて下さいね。
余談になりますが、この楽章で生死を超越したかに見えたマーラーはその翌年(死の前年)、妻・アルマの不倫という事態から強迫症状をきたし、フロイトの治療を受けるに至ります。こうした折に着想された交響曲第10番は、フロイトの治療にて症状が改善したのちは創作が停止し、そのまま未完で終わっています。マーラーの人間臭さが偲ばれるエピソードですね。
というわけで、都響ブラボー!!でした。えーと、ブラボーと言っても仮面ライダーブラーボではありま・・・うおっと、今日はこの辺で。前回の続きは次回に延期です!!
コメント
ここ5年ほど、クラシックは生で聴いてないですね。
みなとみらいホールのスケジュールもチェックしておきます。
川崎のMUZAはブックマークしてるのに。