ルパパトの謎の執事コグレさん、てかコグレさん役の温水さん。私より一つ年下と知ってショックを受けている横浜院長の柏です(T_T)。
10日土曜日は、岩波先生にお招きを受けて昭和大学烏山病院で成人期発達障害の講演をして参りました。昨今はあちこちにお呼ばれしてお話する機会も増えているとはいえ、やはり総本山での講演ということで今回は気合を入れて準備してまいりました。聴衆の皆さんは同院の通院患者さん、ご家族が中心で百名余りでしょうか。私が成人について、小児神経医の宮尾先生が小児についてという二本立てでした。
発達障害についてお話する時は、講演会の性質、観客層、タイミングなどいろいろ考えて内容を決めていくのですが、今回はテーマを二つにしました。一つ目は「発達障害の実際:症状が揃うだけでは発達障害ではない」というお題、もう一つは「発達障害の本質:症状がどうして起きるのか理解する」というお題で話させていただきました。今日は、前者について「サワリ」をお話しましょう。
「症状が揃うだけでは発達障害ではない」…空気が読めなくても、こだわりが強くても、不注意がすごくても、いかに多動であっても……本人も周りも困っていなければ、それは発達障害とは言わないのです。ずいぶん昔、No.026でASWDについて触れておりますが、診断基準を見ても、D項目「その症状は、社会的、職業的、または他の重要な領域における現在の機能に臨床的に意味のある障害を引き起こしている」というのがございまして、要するに困っていなければそれは障害とする必要がないのです。
発達障害、それも成人期の発達障害について考える際は、常に図のように生まれの問題、育ちの問題、現在の問題と多重的に考える必要があります。生まれの問題とは、もともと生まれ持った特性のことで、発達障害のいわゆる「症状」のことです(空気が読めない、こだわりが強い…)。こうした特性を抱えて育つと、その過程でいろいろな困難が生じます。発達障害の特性とは特定の領域での発達の「遅れ」ですので(これについてはいずれお話します)、その遅れが発達課題の克服に影響を及ぼします。例えば、本人の社会性が芽生えないうちに、その友達は友達同士で関わって社会的ルールを身につけてしまう、といったことです。また、No.092でお話しましたが、発達障害を抱えたお子さんは目が合わない、こだわりが強い、多動だ、など基本的に「育てにくい」お子さんであることが多く、母親の愛着が育ちにくい面は否定できません。そうした家庭の一部で虐待やネグレクトにつながったり、またいじめの問題が起きたりするなど、愛着やトラウマに関わる大きな問題が、この育ちの段階で登場することも少なくないようです。こうした中、自尊心が育たず、あるいは毀損し、性格・パーソナリティ形成の段階で回避性や不安・抑うつの方向に向かう人、あるいは怒りや社会怨嗟の方向に向かう人もあり、いずれにしても社会適応にはマイナスに働いてしまいます。元来の特性だけでも適応上の問題を起こしうるのに、この育ちの問題はそれをさらに増幅してしまうことがあるわけです。そんな成長過程をへて成人となり、現在の問題、すなわち対人関係の問題や、職場や学校での適応の問題が発生すると受診=事例化となります。適応障害の水準からうつ病などの精神障害の水準までケース毎に開きがありますが、精神障害の水準に達している場合は薬物療法を含めた十分な治療が必要となります。ここで大切なことは、発達障害の方の現在の問題は、生まれの問題(特性)、育ちの問題がスパイラルとなってできあがったものであるという視点を持つことです。彼らの、彼女たちの歴史を尊重し、時間をかけて癒やしのプロセスを育んでいく、支援者にはそうした視点が求められるのです。
発達障害に関しては、来週またまたNHKで大特集があります。ぜひご覧あれ。今日の一曲は、バッハのイギリス組曲第2番BWV807から前奏曲です。マルタ・アルゲリッチによる1969年の演奏でどうぞ。ではまた。
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